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水島酸素商会の100年のあゆみ

水島酸素商会は、2012年に創業100年を迎えました。1912年、大阪で創業した大阪酸素水島商会は、数年後には重工業が勃興した神戸へと移転。1948年には社名を水島酸素商会に改めます。大正から昭和・平成へと続いてきたこれまでの100年の年月。お世話になった多くの方々への敬意と感謝の気持ちを胸に、次の時代に向け、私たちは「ひとを大切に」これからも歩み続けます。

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水島酸素商会の歴史と
当時の時代背景を読む事ができます。

  • 大阪酸素水島商会の設立。
    大阪から、工業地として発展する神戸へ。

    水島酸素商会の前身である、大阪酸素水島商会の創業は1912年。一般にはまだ珍しかった医療用酸素の取り扱いから事業をスタートさせました。時代は日本のガス産業の黎明期。酸素の製造工場の建設にあたっては、工場周辺の住民から「空気から酸素をとられると死んでしまう!」との反対の声が起こったというエピソードも残されています。そのような中、独学でガスの取り扱いを学び、事業を興した創業者水島辰吉は、新しい時代の産業に対する先見の明と同時に、未知の世界へと飛び込んでいく大胆さを持ち合わせていました。大阪で事業を始めた大阪酸素水島商会は、神戸市の東灘区を経て、1918年に中央区の御幸通りへと本社を移し、事業領域も医療用酸素だけでなく産業用高圧ガスにまで広げました。明治の後期以降、神戸には(株)神戸製鋼所の前身の小林製鋼所や、(株)川崎造船所など、高圧ガスを必要とする大規模な企業が集まっており、大阪酸素水島商会の神戸への移転は、今後の神戸の産業ガスビジネスの更なる発展の可能性を見込んでのことでした。この頃、神戸市内で産業用高圧ガスを取り扱う企業は10社にも満たない数でした。重工業の成長と共に、産業用高圧ガスの需要は増大し、その製造・保存・取り扱い方法を規定する「圧縮瓦斯及液体化瓦斯取締法」が1922年に公布、翌23年から施行されました。

    大阪酸素水島商会の設立。大阪から、工業地として発展する神戸へ。
    COLUMN VOL.1

    第一次世界大戦と産業用高圧ガス人類史上初の世界大戦である第一次世界大戦は、1914年のサラエボ事件を契機に勃発し、早期に終結するという楽観的予想を裏切り、その後1918年まで続くことになります。日本では、この戦争により引き起こされた軍需景気によって、造船業や鉱業を中心とした産業が活況を呈しました。産業用高圧ガスの需要も拡大し、取り扱う企業も続々と誕生しています。

    COLUMN VOL.2

    スペイン風邪の流行と吸入用酸素1918年から1920年にかけて、世界各地でスペイン風邪と呼ばれたインフルエンザが大流行しました。世界中で5,000万人の死者を出し、日本でも38万5,000人が亡くなりました。この騒動の中、吸入用酸素がスペイン風邪に効果があるという噂が広まり、吸入用酸素の需要が急増したといわれています。

  • 水島酸素商会の設立から、山下英正の社長就任。
    高度経済成長期の始まりと、高圧ガス需要の高まり。

    戦争からの復興も徐々に進み始めた1948年、(株)大阪酸素水島商会改め(株)水島酸素商会が、資本金25万円で設立されました。代表取締役社長には引き続き水島辰吉が就任。この頃の水島酸素商会は、川崎航空機工業(株)(現 エア・ウォーター防災(株))の代理店として、主に産業用酸素の取り扱いを行っていました。日神工業(株)、金川造船(株)、神港工業(株)、太田プレス工業(株)等が主な取り引き先でした。日本は1954年の神武景気から始まる、高度経済成長と呼ばれる時代に入りました。1955年には、山下英正が水島酸素商会の二代目社長に就任。この頃には、産業用高圧ガスの需要が高まり、供給できる高圧ガスが足りないという事態も起こったほどで、水島酸素商会も帝国酸素(株)(現 日本エア・リキード(株))の特約代理店となり、売り上げの大部分を産業用高圧ガスが占めるのに対し、創業時からの取り扱い商材である医療用酸素は引き続き小容器の販売が中心でした。医療用酸素の主な取引先には、県立神戸医科大学附属病院(現 神戸大学医学部附属病院)や須磨浦病院、鐘紡記念病院(現 神戸百年記念病院)、川崎病院、野瀬病院、大橋助産所(平成元年に閉鎖)などがありました。 1961年には自社ビルの完成に伴い、本社を神戸市兵庫区の東柳原に移転しました。

    水島酸素商会の設立から、山下英正の社長就任。高度経済成長期の始まりと、高圧ガス需要の高まり。
    COLUMN VOL.3
    2代目社長 山下 英正

    第一次世界大戦と産業用高圧ガス人類史上初の世界大戦である第一次世界大戦は、1914年のサラエボ事件を契機に勃発し、早期に終結するという楽観的予想を裏切り、その後1918年まで続くことになります。日本では、この戦争により引き起こされた軍需景気によって、造船業や鉱業を中心とした産業が活況を呈しました。産業用高圧ガスの需要も拡大し、取り扱う企業も続々と誕生しています。

    • 昭和38年 5月

      全国高圧ガス溶材組合連合会長より業界功労者として表彰

    • 昭和48年 4月

      全国高圧ガス溶材組合連合会長より業界功労者として表彰

    • 昭和56年10月

      兵庫県知事より保安功労者として表彰

    • 昭和58年12月

      大阪通商産業局長より保安功労者として表彰

    • 昭和59年11月

      通商産業大臣より保安功労者として表彰

    • 昭和60年11月

      藍綬褒章下賜

  • 日本経済と共に安定成長を続ける水島酸素商会。
    医療部門の躍進と自社製造工場の設立。

    高度経済成長が終わりに近づき、安定成長期へと日本経済が移っていく1970年代。山下英正が社長に就任した当時は10人に満たなかった社員数も、70年代に入る頃には30人を越え、資本金も2,250万円に増資されていました。この頃の売り上げの割合は、工業部門85%に対して医療部門は15%。売り上げのほとんどを工業部門が占めていた60年代から戦略的に、医療機関への訪問回数を増やすなど、地道な営業努力を行ってきた結果が実り始めてきた時期でした。70年代の終わりには、工業部門50%医療部門50%となっていました。1973年と1979年の2度に渡るオイルショックによって、石油価格は1バーレル2.5ドルから、一時は30ドルを突破し、産業や輸送業は大きな打撃を受けました。このような時代の中にあっても、水島酸素商会では工業・医療の2つの部門がバランス良く営業していたため、オイルショックの影響は少なく、会社は安定した成長を続けます。 1979年には、西宮市を中心に産業用高圧ガス等の販売を行っていた阪神酸素(株)を買収。(株)阪神酸素を新たに設立し、阪神酸素(株)の営業エリアを引き継ぎました。1984年には液化酸素、酸素ガス、液化炭酸ガスを高圧ガス容器に充填する自社製造工場、水島酸素商会神戸工場が竣工。翌1985年には資本金を8,000万円に増資しました。

    日本経済と共に安定成長を続ける水島酸素商会。医療部門の躍進と自社製造工場の設立。
    COLUMN VOL.4
    自社製造工場の設立

    第一次世界大戦と産業用高圧ガス人類史上初の世界大戦である第一次世界大戦は、1914年のサラエボ事件を契機に勃発し、早期に終結するという楽観的予想を裏切り、その後1918年まで続くことになります。日本では、この戦争により引き起こされた軍需景気によって、造船業や鉱業を中心とした産業が活況を呈しました。産業用高圧ガスの需要も拡大し、取り扱う企業も続々と誕生しています。

    • COLUMN VOL.4
    • COLUMN VOL.4
  • 水島酸素商会三代目社長に山下英世が就任。
    労務規定と経営計画の明文化による意識改革を行う。

    時代が、ひとつの転換期を迎えようとしていた1991年。水島酸素商会では山下英正が代表取締役会長に就任。山下英世が代表取締役社長に就任しました。三代目社長となった山下英世のもと新体制となった水島酸素商会では、経営計画書の作成をスタートさせます。経営計画書ではこれまで曖昧になっていた労務規定を見直し、長期的な会社のビジョンと短期的な目標を明確化することで、全社的な意識の向上と団結に繋がりました。日本経済がバブルの崩壊から恒常的な不況の時代へと移っていく中にあっても、水島酸素商会ではスムーズな事業承継を行い、順調に発展することができました。1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生。水島酸素商会では本社社屋・工場とも大きな被害を受けることはありませんでしたが、都市の様々なインフラが寸断され、また多くの負傷者が次々と運び込まれる医療機関では、医療用酸素の不足が緊急の問題となりました。地震発生当日から10人以上が会社に泊りこみ、配送は交通渋滞の無い夜中を中心に、日中は緊急車両としてパトカーの先導を受けながら、医療機関に不可欠な医療用酸素を運び続けました。震災発生から2週間が経つと、今度は復旧工事に必要な産業用高圧ガスの需要が高まり、その後数ヶ月は対応に追われました。この震災で得た教訓をもとに、水島酸素商会ではBCP(事業継続計画)を整備。災害時に備えた体制がとられています。

    水島酸素商会三代目社長に山下英世が就任。労務規定と経営計画の明文化による意識改革を行う。
    COLUMN VOL.5

    1995年1月17日午前5時46分、淡路島北部沖を震源とするマグニチュード7.2の直下型地震が発生しました。死者6,432名、行方不明者3名。負傷者は4万人を越えました。25万棟以上の家屋が全壊もしくは半壊し、6,000戸以上が全半焼。水島酸素商会でも社員の親族が犠牲となる、つらい経験となりました。

    • COLUMN VOL.5
    • COLUMN VOL.5
  • 山下英世の会長、山下邦人の社長就任。
    会社的な組織改革による、次の時代に向けた企業づくりを。

    創業90周年を迎えた2002年4月、医療用酸素への告示価格制度の導入が決定されました。この決定によって、これまでは各社がそれぞれに設定していた医療用酸素の価格が統一されることになり、日本中の医療用酸素を取り扱う販売店は大きな影響を受けました。この事態を乗り切るためには営業力の強化が急務と考え、これまで一人の社員が行っていた営業と配送を分割し、営業専門のチームを発足させました。この組織変更と全社員の努力の結果、当初は酸素の販売価格の変更による大幅な減益が予測されましたが、最終的には黒字でその年を終えることができました。2009年には、山下英世が水島酸素商会代表取締役会長に就任、山下邦人が代表取締役社長に就任しました。2010年までに組織体制を、営業を提案営業、配送を管理営業と改め、その後間接部門の人員を営業チームのサポートに移動。営業のさらなる強化を図ると共に、提案営業はお客様のコストダウンに繋がる提案を、管理営業はお客様の状況を把握し、要望をくみ取ったきめ細かな配送を、それぞれ行う体制を整えました。 2012年に創業100周年を迎えた水島酸素商会。今後も時代の変化を先取りし、変革することが成長と考え、次世代に向けた事業承継を行い、発展を続けてまいります。

    山下英世の会長、山下邦人の社長就任。会社的な組織改革による、次の時代に向けた企業づくりを。
    COLUMN VOL.6
    アイペック株式会社

    水島酸素商会では1979年に、西宮市を中心に産業用高圧ガス及び溶接材料の販売を行っていた阪神酸素(株)を買収。その営業エリアを引き継ぐ会社として(株)阪神酸素を新たに設立、取り扱い品目も産業薬品から化学樹脂、応用機器装置まで次第に拡大させました。2006年には(株)阪神酸素から、アイペック株式会社に社名を変更。これまでの水島酸素商会の事業領域に留まらない、新しい可能性を広げる企業と位置づけ、2011年からは韓国溶接機トップメーカーのHYOSUNGと総代理店契約を結び、溶接機および関連部品の日本での販売を開始しました。

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    • COLUMN VOL.6
株式会社水島酸素商会